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多針刺繍機トラブル対応プロトコル:パニックから「切り分け」へ
業務用刺繍ミシンが途中で止まる――あの静けさは、現場ではかなり重いです。単なる一時停止ではなく、納期と利益が削れていく音でもあります。
初心者は焦りが先に立ち、経験者はチェックリストが先に出ます。
動画では、刺繍の現場経験が豊富な Ever Romero が、多針刺繍機のトラブルシューティングを「7ステップの考え方」として整理しています(例:ricoma 刺繍ミシン など)。ただ、手順を“知っている”だけでは足りません。刺繍は理屈だけでなく、目・耳・指先で「いつもと違う」を拾って原因を絞る作業です。
このガイドは、いわば現場用の「フライトマニュアル」。Romero の内容を、どの業務用刺繍機でも使える“感覚ベースの実行手順”に落とし込みます。

事前準備:「プレフライト」校正(基準づくり)
ドライバーを握る前に、まず基準を作ります。「正常」が分からない状態では、直す方向が定まりません。
1. マニュアルは“地図”
記憶に頼らないでください。機種ごとに糸掛け経路、エラー表示、設定項目が微妙に違います。
- 現実: 紙の冊子が付属せず、USB内のPDFだけ/そもそも手元にない、というケースもあります(コメントでも同様の声がありました)。
- 現場対応: 少なくとも「糸掛け図」と「エラーコード一覧」は印刷して、ラミネートして、機械の側面に貼っておくのが実務的です。納期前で焦っているときに、スマホでPDFを探すのは事故の元です。
2. テンション確認:Iテスト(Hテスト)
糸切れ・縫い不良の原因で最も多いのはテンションです。機械の故障を疑う前に、まずテンションの“基準”を確認します。
Iテストのやり方:
- サテン柱(サテンカラム)が並ぶデザインを用意します(文字ブロックなどが分かりやすい)。
- 実際に縫います。
- チェック(見た目): 生地を裏返し、裏面を見ます。
- 合格の目安: 上糸の色が左右に出て、中央に白い下糸(ボビン糸)が帯状に見える状態。
- 「三分割」の考え方: 中央の白(下糸)が幅の 1/3、左右の色(上糸)がそれぞれ 1/3 ずつ見えるのが目安です。

結果の読み取り:
- 白が多すぎる(下糸が目立つ): 上糸テンションが強すぎ。緩めます。
- 白がほぼ出ない(全部色に見える): 上糸テンションが弱すぎ。締めます。
ステップ1:下糸(ボビン)チェック(縫いの心臓部)
Romero が最初にここから入るのは、ボビン周りが縫い目形成の“エンジンルーム”だからです。摩擦が大きく、糸くず詰まりや絡みが起きやすい箇所でもあります。

感覚で行う点検プロトコル
目的: 回転がスムーズで、糸の通り道が清潔であることを確認する。
- ボビンケースを外す。
- 「カチッ」確認(音): 戻すときは、しっかり押し込んで“カチッ”と明確に座った感触/音があるか確認します。座りが甘いと、縫い不良や針折れにつながります。
- 回転方向確認(見た目): ピンセットで糸端を引き、ボビンが 時計回り に回ることを確認します。
- 理由: 時計回りで回ることで、ケースのスリットに対して適切な抵抗(ドラグ)がかかり、糸調子が安定します。逆回転だと糸が暴れて鳥の巣(ボビン周りの糸絡み)になりやすくなります。
- 糸くず・絡み確認(見た目+手触り): ライトで釜(ロータリーフック)周辺を覗きます。
- 糸くずは“クモの巣”のように糸ループを引っ掛け、フックの動きを邪魔します。
- 作業: エアダスターは短く断続的に吹く(またはマニュアル指定がある場合はブラシで)など、機械の指示に合わせて清掃します。






事前に揃える消耗・補助アイテム(止まってから探さない)
- エアダスター(または清掃ブラシ): 釜周りの糸くず除去用。※エア使用については現場で意見が分かれます。使う場合は短く、狙って。
- 精密ピンセット: 短い糸端や絡みの除去に必須。
- ミシン油: 釜の指定箇所に少量。注油頻度は機種の指示に従ってください。
- 新しいボビン: 変形や巻きムラは不調の原因になります。まずは「疑わしいボビンを交換」が早いです。
チェックリスト(準備フェーズ)
- マニュアル(糸掛け図/エラーコード)がすぐ見られる。
- 注意: 釜周りに手を入れる前に主電源をOFF(必要に応じて非常停止も)。
- 釜周りに糸くず・糸切れ端・絡みがない。
- ボビンケースのテンションバネ(ピッグテール部)に曲がり/傷がない。
- ボビンが糸を引いたとき 時計回り に回る。
- ボビンケースを戻したとき、確実に座った感触(“カチッ”)がある。
ステップ2:針の向きと糸道(スレッドパス)点検(流れの系統)
ボビンが心臓なら、糸道は血管です。どこか1点でも引っ掛かれば、全体が破綻します。

針の向き:基本ルール
工業用針は丸軸のため、逆向きに付けてしまう事故が起きます。
- 物理ルール: 針の 長い溝(ロンググルーブ) が手前、スカーフ(えぐれ) が奥。
- 理由: ロータリーフックは、そのスカーフの逃げに正確に入り込んで糸ループを拾います。逆向きだとフックが糸ではなく針に当たり、針折れや糸切れにつながります。
糸道をたどる(フロスチェック)
目で見るだけでなく、指で“抵抗”を感じ取ります。
- 糸立て(コーン)から針まで、通常通りに糸掛けします。
- 針穴に通す前に、糸を少し長めに引き出します。
- 手触りチェック: 歯間ブラシ(フロス)を引くように、一定の抵抗でスーッと引けるのが正常。
- 異常のサイン: 引くたびに「ガクッ」と引っ掛かる/ビリビリ振動する/途中で急に重くなる。
- よくある原因: ガイドに糸が乗っていない、ポストに巻き付いている、可動部に触れている、チューブ内で引っ掛かっている。





注意:機械安全
機械が待機状態(初期化後)で、針棒付近に手を入れないでください。多針刺繍機は自動色替えでヘッドが横に急移動します。針交換や点検は、必ず非常停止(E-Stop)を明示的に押してから行ってください。
ステップ3:スタビライザーと枠張り戦略(変数を減らす)
機械が正常でテンションも合っていても、生地が動けば失敗します。ここが「趣味」から「仕事」へ変わる境目です。
針の選び方:ボールポイント vs シャープ
Romero の目安はシンプルです。
- ニット(Tシャツ、ポロ): ボールポイント(75/11 BP)。繊維を切らずに押し分けます。
- 織物(デニム、キャップ、キャンバス): シャープ(75/11 または 80/12 Sharp)。密な素材を確実に貫通します。
「枠跡(枠焼け)」問題
ricoma mt 1501 刺繍ミシン のような機械を導入したばかりの方がつまずきやすいのが、標準の刺繍枠でデリケートな生地に残る枠跡です。
現場の改善ルート: 枠跡、厚物が枠から抜ける、枠張りの反復で手首が痛い――こうした悩みは、技術不足というより“治具(ツール)不足”のことが多いです。
- レベル1(やり方で改善): 枠滑り止め(ラバー)を使う/粘着スタビライザーに浮かせ貼りする(手間は増えるが効果は出る)。
- レベル2(道具で改善): マグネット刺繍枠 に切り替える。
- 理由: 摩擦ではなく磁力で保持するため、押し潰しによる枠跡が出にくい。
- 生産性: 厚物でも締め付けネジと格闘せず、枠張りの速度と再現性が上がります。
- レベル3(工程で改善): ミシン刺繍 用 枠固定台 を使い、毎回同じ位置にロゴを置けるようにします。
注意:マグネットの安全
業務用のマグネット刺繍枠は強力なネオジム磁石を使用します。指を強く挟む危険があります。ペースメーカー等の医療機器や精密機器の近くでは扱わないでください。外すときは“こじる”のではなく、滑らせて分離します。
ステップ4:7ステップのトラブルシューティング(運用フェーズ)
止まったら、Romero の考え方に沿ってこの順番で切り分けます。飛ばさないのがコツです。
症状別:一次切り分け表
| 症状 | まず疑う箇所 | その場の対処 | 再発防止(根本対策) |
|---|---|---|---|
| 鳥の巣(針板下で糸玉) | テンション/糸道 | 針板下の糸を無理に引かず、切って除去。 | 上糸がテンション皿に正しく入っているか(フロスチェック)。 |
| 針折れ | 針の向き/キャップ治具等の干渉 | 針交換。スカーフ向きを再確認。 | デザイン密度の見直し。厚い段差に 75/11 で突っ込んでいないか。 |
| 目飛び | 針/生地のバタつき(フラッギング) | 針交換。 | 生地が跳ねている。スタビライザー増量、または マグネット刺繍枠 で保持力を上げる。 |
| 誤検知の糸切れ(糸は切れていないのに停止) | センサー/設定 | 糸切れセンサー周りの糸くず清掃。 | 感度設定はマニュアル参照。糸送りが“引っ掛かっている”兆候がないか確認。 |
| 糸が毛羽立つ/裂ける | 針/速度 | 針交換。速度を落とす。 | 針穴が小さすぎる、針先にバリがある等。 |
判断の分岐:スタビライザーは何を選ぶ?
- 伸びる素材(Tシャツ/ポロ)?
- YES -> カットアウェイ系スタビライザー+ボールポイント針。
- 安定した素材(キャンバス/キャップ)?
- YES -> ティアアウェイ系スタビライザー+シャープ針。
- 厚い/毛足がある(タオル/フリース)?
- YES -> 水溶性トッピング(Solvy等)+マグネット刺繍枠(毛足を潰しにくい)。
チェックリスト(段取り&運転)
- 素材に合う針(ボールポイント/シャープ)を選んだ。
- 素材の伸縮に合うスタビライザーを選んだ。
- 枠内でデザイン位置が合っている(縫う前にトレース/枠内確認)。
- 速度を制限: 新規デザインや難しい糸は、まず低速で様子を見る(速度は機種設定に従う)。
- 最初の数百針は必ず監視。音や糸の動きが“いつもと違う”なら即停止して原因を戻って確認。
まとめ:変数を減らすと、止まらない
刺繍は魔法ではなく物理です。糸切れには必ず物理的な原因があります。
趣味から受注生産へ移行する方、または ricoma em 1010 刺繍ミシン のような機械で現場を回し始めた方ほど、目標は「変数を減らす」ことです。
- 消耗品を標準化: 糸と針を“いつもの組み合わせ”に揃える。
- 枠張り(保持)を強化: 枠張りで苦戦するなら、道具の見直しが近道です。
- 記録を残す: 何をしたら直ったか、どの針番で起きたか、清掃後か――をログに残すと、次回の復旧が速くなります。
Romero の基本チェック(テンション→ボビン→針→糸道)を習慣化すると、当てずっぽうではなく“切り分け”で復旧できるようになります。結果として、機械が動くだけでなく、次の注文にも落ち着いて対応できる現場力がつきます。
