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刺繍トリム(糸切り)の「見えないコスト」を理解する
少しだけ、刺繍機の音に耳を澄ませてみてください。一定のリズムで「タタタタ…」と回っていますか? それとも渋滞の車のように「加速→停止→ガチャン(カット)→移動→加速…」を繰り返していますか?
その「ガチャン(カット)」は、利益が削れていく音です。
PC画面上では同じに見える刺繍データでも、実際の縫製時間が大きく違うことがあります。原因はモーター性能よりも、データ内に仕込まれた不要なトリム(糸切り指示)による“停止イベント”の多さです。

この解説では、業界エキスパートのJohn Deerが、こうした効率低下の原因(トリム指示)をどう見つけ、どう置き換えるかを、実務で再現できる形に分解します。ポイントは、機械的なトリム(糸切り)を、賢い渡り縫い(ラン)で置き換えて「止まらない流れ」を作ること。ミシンを失速させず、一定のテンポで回し続けるための編集です。
量産向けにデジタイズする方はもちろん、「1枚あたり2分短縮できたら、夜中まで作業せずに済む」という小規模工房にも効果が大きい編集です。これは“ステッチ数”ではなく“停止回数”を減らすためのロジックで、枠張り時間も含めた総サイクル(枠張り+縫製+後処理)を詰めたい場合、マグネット刺繍枠のような段取り改善と相性が良い考え方です。
この記事で身につくこと(適用後に何が変わるか)
- 「透視スキル」: 画面上で見落としがちなトリム指示(小さなハサミのアイコン)を見つける方法
- 「120ステッチ換算」: トリム1回が“約120ステッチ分”の時間ロスになり得る理由
- 「橋渡し」テクニック: Digitize Afterで安全な渡り縫い(ラン)を挿入する手順
- 「フライトシミュレーター」: Slow Redrawで縫い順の流れを事前確認する見方
- 不安の解消: 「渡り糸は見えない?」「なぜステッチ数が増えるの?」への整理
注意: (機械動作のリスク) トリムは単なる指示ではなく、実機ではソレノイド作動・カッター作動・テンション変化を伴う強い動きです。トリムを雑に削って長いジャンプ(例:>7mm)を無理につなぐと、針のたわみや糸絡み(ボビンケース周りの“鳥の巣”)の原因になります。必ず画面上でシミュレーションし、必ず本番前に同等素材の端切れで試し縫いしてください。
ステッチ数と実縫製時間を切り分けて考える
現場でよくある逆説があります。画面に出るステッチ数は、時間の指標としては当てにならないということです。嘘というより、「時間」を表していません。

Johnの例は、小さなドット(小円)オブジェクトが円周上に並ぶシンプルなデザインです。各ドットの横にハサミのアイコンがあり、つまり各ドット間でトリムする指示が入っています。
トリム時にミシンが実際にやっていること
トリムが効率を壊す理由は、ミシンが物理的に次の動作を挟むからです。
- 減速: 例として800SPM(1分あたり針数)から0まで落とす
- 止め縫い(Tie-Out): ほどけ防止のロック
- カット: カッター作動(あの“ガチャン”)
- ジャンプ: 次の位置へ枠(パンタグラフ)移動
- 止め縫い(Tie-In): 次の開始点でロック
- 再加速: 縫い速度まで徐々に戻す
「トリム1回=最大120ステッチ分」チェック
Johnは、不要なトリムによって最大で120ステッチ分の実稼働時間を失う可能性があると説明しています。現場の見積もり感覚として覚えておくと便利です。

例の元データはカウンター上では4,380ステッチですが、トリムが約36回あります。
- 計算: 36回 × 120ステッチ換算 = 4,320ステッチ相当の“見えない時間”
- 現実: ソフトの予測より、体感でほぼ倍の時間がかかり得ます
よくある質問(コメントより要約):「トリムを減らしたのにステッチ数が増えたのはなぜ?」
鋭い視聴者が、最適化後にステッチ数が116ステッチ増えた点に気づいています。初心者ほど「ステッチ数が少ない=良いデータ」と思いがちなので、ここで不安になります。
John本人も増加を認めており、隙間をつなぐために116ステッチ分の渡り縫い(ラン)を追加しています。それでも実縫製は速くなります。理由は、800SPMで116ステッチ縫うのは数秒で済む一方、36回のトリムは減速・停止・再加速を繰り返すため、合計で大きな時間ロスになるからです。
生産目線の切り替え:
- 初心者はステッチ数を追いがち
- 現場は停止/再開の回数を減らします
1枚だけのギフトなら差は小さいかもしれませんが、50枚ロットのような量産では、1枚あたり90秒短縮できるだけで合計1時間以上が浮きます。だからこそ、データ最適化に加えて、枠張りの段取りも含めて止まりを減らす発想が重要です。例えば、一定の枠張り手順を作り、ミシン刺繍 用 枠固定台のような治具で枠張りのムラと時間を削る、という考え方につながります。
手順:"Digitize After"でオブジェクトをつないでトリムを減らす
ここでは動画の流れを、再現性重視で手順化します。画面を見ながら同じ操作ができるように「やること→確認点」の順で書きます。

事前準備(ファイルを触る前に)
ソフト上の編集は、実機での検証が前提です。「デジタルの理屈」を「物理の現実」で確認できる状態を作ってから始めます。
見落としがちな消耗品・準備チェック
- 針: 新しい針を使用(例として75/11)。摩耗した針は渡り縫いで糸切れを誘発します。
- 端切れ+スタビライザー: 本番衣料では試さない。近い厚み・伸縮の端切れで確認。
- 拡大確認: 画面のズームやルーペで、渡り縫いが本当に隠れているか確認できるようにする。
- 段取りの前提: 縫製時間を詰めるなら、枠張りも同じだけ重要です。多くの現場では、データ最適化と合わせて 刺繍 枠固定台 を使い、枠張りの再現性を上げて「短縮した縫製時間」を段取り遅れで相殺しないようにします。
事前チェック(Pre-Flight):
- ズーム: デザインを開き、少なくとも400%相当まで拡大して針落ちを見える状態にする
- ハサミ探し: 画面上でハサミ(トリム)アイコンを目視で洗い出す
- 色の整合: つなぐ予定のオブジェクトが“同一の糸色”であることを確認
- 距離感: オブジェクト間が近いか(目安:2mm〜4mmが扱いやすい)。極端に離れているなら無理につながない
Step 1 — 非効率ポイント(トリム指示)を洗い出す
Johnはまず、各ドットの横にあるハサミアイコンを確認し、トリムが連発している状態を見せています。

見え方の目安: シーケンス表示(オブジェクト一覧)が、滑らかに流れるデータは“滝”のように連続します。トリムだらけのデータは、細かい中断が多く“ガタガタ”に見えます。
Step 2 — 開始オブジェクトを選び、糸色を確認する
Johnは3:1スケールまでズームし、Sequence View(右上の一覧)で最初のオブジェクトを選択します。さらに、編集するオブジェクトと同じ糸色(例:青緑/ティール)を使っていることを強調しています。

チェックポイント: 選択が“1つだけ”になっているか確認してください。グループ全体を選ぶと、"Digitize After"がデザイン末尾に入ってしまい、意図した場所に挿入できないことがあります。
Step 3 — "Digitize After"を起動する
対象オブジェクトを右クリックし、メニューから Digitize After を選びます。その後、Johnの環境ではキーボードの「1」キーで入力モード(ラン入力)に入っています。

いま起きていること: 「ここで糸を切らず、次の場所まで糸を持っていく線を追加する」という指示を、縫い順の直後に挿入しています。
Step 4 — オブジェクト間に渡り縫い(ラン)を作る
ここが最重要です。ズレると“見える糸”になります。
- アンカー: 現在オブジェクトの終点を正確にクリック
- ブリッジ: 次オブジェクトの開始点へ向けてクリック
- 確定: Enterで確定

Johnは、渡り縫いを「ちょうど間(下)に落として、次のオブジェクトに埋める」意識が大切だと説明しています。

チェックポイント: ハサミアイコンが消えましたか? 細い線(ラン)が表示されましたか? 成功の目安: 2点間の最短距離で、余計なカーブや回り道がないこと。
Step 5 — 同じ操作を繰り返して、円周を一周つなぐ
作業はリズムです。以下を繰り返します。
- 次のオブジェクト(または作成したラン)を選択
- 右クリック → Digitize After
- 隙間をつなぐ
- Enter

作業中はSequence Viewを見て、連続した糸の流れが組めているか確認します。

チェックポイント: 一覧が オブジェクト → ラン → オブジェクト → ラン の交互になっていれば、狙い通りです。
「渡り糸が見える」問題を防ぐ設定メモ
コメントで多い不安が「棒付きキャンディみたいに渡り糸が見えない?」という点です。
現場の結論: “重なり(レイヤー)”次第です。
- 隠蔽のルール: 次のオブジェクトがサテンや密度のあるタタミであれば、単発のランは下に埋まりやすい
- 微調整(Nudge): 視聴者の提案として、ドットを外周の仕上げステッチに少し寄せると、外周が渡り糸を覆って目立ちにくくなる場合があります
安定性(枠張り)との関係: 連続縫いは、スタビライザー(生地を支える下紙)と枠張り精度への要求が上がります。トリムが多いと一瞬“止まる”ため生地が落ち着くこともありますが、連続縫いは常に引っ張りがかかります(プッシュプルの影響)。
- 渡り縫いが曲がる/露出する場合、データよりも生地ズレが原因のことがあります
- 対策: 枠張りをしっかり(ドラムのように均一)に。難素材では、保持力と枠跡のバランスを取りやすい 位置合わせ可能 刺繍枠 のような選択肢を検討する、という考え方もあります
途中チェック(作業中):
- 終点クリック: “近い所”ではなく終点そのものを拾えているか
- 埋まり: 渡り縫いが次オブジェクトの下に入っているか
- 順序: ランが意図した位置に挿入されているか
- 色: 色替えが混ざっていないか(同一色ブロック内で完結しているか)
小さな円(ドット)とプッシュプル補正
Johnは重要な原則にも触れています。「画面の形」と「布の上の形」は一致しません。

画面上の真円は、縫うと糸の締まり(引き)で楕円になりやすい(プル補正の影響)ため、あえて横長の“卵形”に作って、縫い上がりで円に見えるように調整します。
- 基本: 小円は“横長気味”で設計して縫い上がりを円に寄せる
- 今回の関連: トリムを減らして連続縫いにすると、テンションと引きのかかり方が変わります
触って確認する目安: 仕上がりを指でなでたとき、ドットがしっかり立っているか。上糸が弱くて下糸(ボビン糸)が表に出るようなら、テンションが緩い可能性があります。
Slow Redrawで結果を可視化する
静止画だけを信用しないでください。縫い順は“動画”で確認します。

Step 6 — シミュレーションして検証する
Redraw / Slow Redrawで、針先(クロスヘア)がどう動くかを追います。

見るポイント:
- ジャンプ: クロスヘアが瞬間移動する(トリム)か、糸を引きながら滑る(ステッチ)か
- 通り道: 白場(何もないところ)を横切っていないか/次のドットの下に潜っているか
書き出し前チェック(運用チェックリスト)
現場では「書き出し前=最終検品」です。
書き出し前チェック:
- 流れ: Slow Redrawで連続してつながっている
- 隠蔽: 渡り縫いが白場を横切らない
- トリム削減: トリム数が大幅に減っている(例:38→3)
- 安全: 長すぎる渡りがない(目安:5mmを超えるなら慎重に。必要ならトリムを残す)
商用での「次の壁」
この最適化を毎日のように行って納期を回しているなら、ハード面のボトルネックが見えてきます。
- 詰まりやすい点: 単針機は色替えや停止が増えやすく、トリム動作も機種によって時間がかかります
- 考え方: まとまった数量(例:20点以上)を継続して回すなら、多針刺繍機の導入を検討する段階に入ることがあります
注意: (マグネットの安全) 生産性向上のためにマグネット刺繍枠を導入する場合、磁力は非常に強力です。ペースメーカー等の医療機器に近づけないこと。指挟みの危険もあるため、作業台にバラ置きせず管理してください。
トラブルシュート(症状 → 原因 → 対処)
不具合が出たら、まず物理条件(枠張り・素材・テンション)を疑い、その次にデータを疑うのが近道です。
| 症状 | ありがちな原因 | すぐ効く対処 | 予防 |
|---|---|---|---|
| ステッチ数は少ないのに、縫製が遅い | トリムが多く、減速・停止・カットに時間を使っている | 最適化: "Digitize After"で近距離をつなぐ | 縫う前にハサミアイコンを確認 |
| 渡り糸が「棒」みたいに見える | 白場を横切っている/次オブジェクトに埋まっていない | 微調整: 渡りの開始点・着地点を“より深く下に”入れる | Slow Redrawで埋まりを確認 |
| 編集後にステッチ数が増えた | 渡り縫い(例:+116)を追加した | 問題なし: 渡り縫い100針よりトリム1回の方が遅い | ステッチ数より停止回数を見る |
| 小さいオブジェクトが崩れる/歪む | 連続縫いの引きで生地が動く/スタビライザーが弱い | 安定化: スタビライザーや枠張りを見直す | 枠張りの保持力を上げる |
| 渡りで糸切れが出る | 渡りが長い(例:>7mm)/テンションが強い | 短くする: 距離があるならトリムを残す | 上糸テンションを点検 |
判断フロー:つなぐべきか/トリムすべきか
何でもトリムを消すのは危険です。次の順で判断します。
- 同じ糸色か?
- いいえ → 中止。 トリム(または色替え)が必要
- はい → 次へ
- 距離が短いか(目安:<5mm〜10mm)?
- いいえ → 中止。 長い渡りは引っ掛かり・シワの原因
- はい → 次へ
- 次のオブジェクトで確実に隠れるか?
- はい → 実行: "Digitize After"で接続
- 微妙 → 注意: 端切れで試し縫い
- いいえ → 中止。 見た目優先でトリムを残す
- 量産か?
- はい → 最適化の効果が大きい。hoopmaster 枠固定台のような段取りと組み合わせると、秒が時間になる
- いいえ → 速度より仕上がり優先でトリムを残す判断もあり
結果(成功の見え方)
動画の最後で、同じ見た目でも挙動が変わることが示されます。

最適化前は Total Trims: 38。つまり38回の中断で、糸切れリスクも騒音も増えます。

最適化後は Total Trims: 3。見た目は同等でも、動きが滑らかになり、位置合わせ(レジストレーション)も安定しやすくなります。
納品データの基準(保存/書き出し)
作業後の“正”データは次を満たすのが理想です。
- 新規バージョンとして保存(例:
Design_Optimized_v1.emb)—元データは上書きしない - Slow Redrawで確認済み(白場ジャンプなし)
- 端切れで試し縫い済み
ワークフローの結論: データ最適化は「ソフト面の効率化」ですが、現場はソフトだけでは速くなりません。
- ソフト: 縫製時間を短縮(Digitize After)
- 段取り: 枠張り・セット時間を短縮
- つなぎ目: データが速くなると、次は“手作業”が詰まりになります。そこで マグネット刺繍枠 用 枠固定台 のような治具で、着脱を速く・再現性高くして、速いデータを待たせない流れを作ります。
よくある質問(コメントより要約):使用ソフト名
動画内でJohn Deerが使用しているのは Embroidery Legacy software です。ただし、"Digitize After"に相当する「縫い順の直後に渡り縫いを挿入する」発想は、多くの業務用デジタイズソフト(WilcomやHatch等)にも類似機能があります。名称や操作は違っても、刺繍の物理は同じです。
