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選択操作を制する:Hatch「選択」機能の実務ガイド
刺繍現場で痛感するのは、仕上がりを台無しにする原因が「ミシン」ではなく「データ編集の一手」だった、というケースが少なくないことです。Hatchでデザインを編集しようとして「クリックしてるのに反応しない」「思ったところが選べない」と感じたら、多くは選択(Selection)のルールに引っかかっています。
選択は単なる操作ではなく、編集対象の監査(デザインの点検)です。オブジェクトを選ぶ=その要素の設定や縫い順に手を入れる入口になります。ここを誤ると、背景の塗りつぶしまで一緒に縮小して密度が上がりすぎたり、下縫い(アンダーレイ)を消して上糸が生地に沈んだりと、実縫いで一気に破綻します。
本稿では、動画の内容を「現場で使える手順」に組み替えて解説します。ソフトの挙動だけでなく、針と糸の現実(縫い上がり)にどう影響するかまでつなげて理解できる構成です。


このモジュールでできるようになること
- 画面の状態把握: いま「アクティブ(編集対象)」なのは何か、どこが「安全(触っていない)」かを即判断できる
- 誤編集の防止: ボックス選択の「完全に囲ったものだけ」ルールで事故を減らす
- 作業スピード:
Ctrl(拾い選択)とShift(縫い順レンジ選択)の使い分けができる - 工程監査: Resequence Dockerで色ブロック/縫い順を俯瞰し、無駄な色替えや編集漏れを早期に見つける

「完全に囲ったものだけ」ルール:ボックス選択の安全装置
動画で強調されているのが、初心者がつまずきやすい一方でプロの事故を減らす考え方、ボックス選択(点線の範囲選択)の安全ルールです。
ルール: 点線のボックスをドラッグして囲ったとき、Hatchはボックスの内側に100%入ったオブジェクトだけを選択します。境界線に少しでもかかったオブジェクトは、保護されるように選択されません。
なぜ厳密なのか(縫い上がりの観点)
この厳密さは、編集事故を防ぐために有利です。たとえば、大きな背景の塗りつぶしの上に小さな文字ロゴがあるケースを想像してください。
- 起きがちなミス: 文字だけを触りたいのに、背景まで一緒に選択してしまう
- 現場での結果: 文字を10%縮小したつもりが背景も縮小され、背景のステッチ密度が上がって硬くなり、つっぱり・シワ・針折れの原因になる
- 対策: 「完全に囲う」ルールに従うと、意図したものだけを確実に選びやすくなります



現場チェック:クリック1回のコスト
ソフト上の誤選択は、そのままコストになります。意図しない選択が原因で起きやすい例:
- 枠跡(枠跡が残る): 意図せずオブジェクトを編集して縫い負荷が上がると、生地が引っ張られ、枠跡が戻りにくくなる
- 糸絡み(いわゆる鳥の巣): レイヤーをずらして隙間ができると、結び・渡りの挙動が乱れ、下側で絡みやすくなる
注意:安全面(実縫い前)
編集したデータを試し縫いする際、最初の1分は必ず音と動きを確認してください。一定のリズム音は通常ですが、金属が当たるような鋭い異音が出たら密度過多などの可能性があります。すぐ停止し、針棒周辺に手を近づけないでください(針が曲がって破断するリスクがあります)。
Ctrl と Shift:見た目は同じでも「選び方の法則」が違う
Hatchには複数選択の方法がいくつかあります。画面上はどれもマゼンタ表示で似ていますが、挙動の基準が異なります。
方法1:クリック選択(狙って当てる)
「Select Object」ツールを有効にして(ホットキー:O)、オブジェクトを直接クリックします。黒いハンドル(四隅の小さな四角)が出ます。単体の微調整に向きます。

方法2:Ctrl + クリック(拾い選択:安全な基本形)
こういうときに使う: 縫い順が離れていても、必要なパーツだけをピンポイントでまとめたい
- 1つ目のオブジェクトをクリック(例:左のハート)
- Ctrlを押しながら
- 追加したいオブジェクトをクリック(例:別のハート)
この状態は「一時的にグループ化している」イメージです。削除すれば一緒に消え、拡大縮小すれば一緒にスケールします。

チェックポイント: 黒いハンドル枠が、クリックした要素だけを囲んでいるか確認します。もし枠が突然デザイン全体を囲むように跳ねたら、背景など別要素を拾っています。すぐに取り消し(Ctrl+Z)してやり直してください。
方法3:Shift + クリック(縫い順レンジ選択:タイムライン基準)
こういうときに使う: 「縫い順で連続している範囲」をまとめて選びたい
- 最初のオブジェクトをクリック
- Shiftを押しながら
- 最後のオブジェクトをクリック
落とし穴: Shiftは見た目の位置ではなく、縫い順(ステッチ順のタイムライン)で「最初〜最後の間にあるもの」をすべて選びます。画面上で一直線に並んでいなくても、縫い順に挟まれていれば選択に入ります。

現場のコツ:画面の近さ=縫い順の近さ、ではない
- 状況: 近くに見える2つの花をまとめて動かしたい
- 結果:
Shift+Clickで、間に縫われるツル(別オブジェクト)まで一緒に選択してしまう - 対策: 「パーツを拾う」なら
Ctrl、「縫い順の区間をまとめる」ならShiftと割り切る
Resequence Docker:デザインを「一覧」で管理するコントロールルーム
キャンバス上で複雑なデザインから狙った要素を探すのは、山積みの紙から1枚だけ抜くようなものです。Resequence Dockerを使うと、縫い順や色ブロックがリスト化され、監査と編集が一気にやりやすくなります。

事前準備:編集前の「プレフライト」
クリックを始める前に、編集環境を安定させます。
- 表示倍率: 100%〜200%を目安に。20%のまま編集すると誤クリックが増えます
- 目的の明確化: 速度優先(色替え削減)か、品質優先(密度・下縫いの維持)か
「枠張り」の変数: ソフト上で正しく選択できても、実縫いで生地が枠内で動けば結果は崩れます。量産では枠張りの再現性が品質を左右します。現場では、毎回同じテンションと角度でセットするために 刺繍用 枠固定台 を使うケースもあります。データ編集が正しくても、セットが斜めなら失敗になります。
事前チェックリスト
- 表示チェック: 必要に応じてステッチ表示を切り替え、密度感を目視できる状態にする
- Dockerチェック: Resequence Dockerが開ける環境か(Creator/Digitizerレベルが必要)
- 単位チェック: mm/インチの混在がないか
- 変更影響チェック: 編集後にステッチ数が極端に増減していないか(大きく変わる場合は設計の見直しが必要)
モード1:色で選ぶ(Colors:一括処理)
Dockerの「Colors」表示で色タイルをクリックすると、その色ブロックに属するオブジェクトがまとめて選択されます。

作業効率の改善ポイント: 色数の整理(色替え回数の削減)に有効です。どの要素が同じ色ブロックに入っているかを一目で把握できます。


モード2:オブジェクトで選ぶ(Objects:精密操作)
Dockerを「Objects」に切り替えると、縫い順に沿って要素が一覧表示されます。キャンバスでクリックしづらい小さな要素も、リストから確実に選択できます。


使いどころ: 重なりが多い箇所、細かいパーツ、クリックが拾えない要素は、リストから選んで削除・サイズ変更・色変更を行うほうが安全です。
判断フロー:どの選択ツールを使うべきか
編集のたびに迷わないための簡易フローです。
- 色ブロック単位で一括変更したい?(例:赤をまとめて別色に)
- YES: Resequence Docker > Colors
- NO: 次へ
- 要素が重なっていて誤クリックしやすい?
- YES: Resequence Docker > Objects(キャンバス選択は事故率が上がる)
- NO: 次へ
- 縫い順で連続した範囲をまとめたい?
- YES: Shift + クリック
- NO: Ctrl + クリック(基本はこれが安全)
Resequence Dockerが見当たらないとき(コメントで多い疑問)
Resequence Dockerは、すべてのエディションで使えるわけではありません。動画内でも触れられている通り、CreatorまたはDigitizerレベルで利用でき、Basics/Customizingでは表示されません(デザインが常にグループ扱いになります)。
「ResequenceではなくSequenceしかない」「画面が動画と違う」という場合は、まずご自身のエディションを確認してください。
量産視点:ソフト編集だけでは埋まらないボトルネック
選択ツールでデータを最適化しても、現場では「セット時間」や「枠跡」がボトルネックになることがあります。
よくある問題:枠跡と段取り疲れ
デリケートな素材で標準の刺繍枠を強く締めると枠跡が残りやすく、また連続作業では締め付け作業が負担になります。
改善の方向性(段階的)
レベル1:手順の工夫
- 必要に応じてスプレー等を併用し、無理な締め付けを避ける
レベル2:治具・枠の見直し
- マグネット刺繍枠 は強力な磁力で生地を保持するタイプで、枠跡の軽減やセット時間短縮につながる場合があります。
注意:マグネットの安全
マグネット刺繍枠 は強力な磁石を使用します。
* 挟み込み注意: 指を挟むとケガにつながります。着脱はゆっくり確実に行ってください。
* 医療機器: ペースメーカー等を使用している場合は近づけないでください。
運用手順:編集を安全に反映するための手順
- Select Objectを有効化(ホットキー:O)。
- チェックポイント: 選択用カーソルになっているか
- 範囲(スコープ)を確認。
- ステータス等でサイズ感を把握する
- 選択を実行。
- 基本は
Ctrl+Clickで安全に拾う - 広い範囲はボックス選択(完全に囲う)
- 基本は
- ハンドルを確認。
- チェックポイント: 黒いハンドル枠が意図した要素だけを囲んでいるか
- 編集を実行。
- サイズ変更/削除/色変更など
- 編集後の監査。
- 変更内容に対してステッチ数の増減が不自然でないか
運用チェックリスト
- 選択確認: Shiftのレンジ選択で不要な要素が混ざっていない
- 密度確認: 大きく拡大縮小した場合、密度が過剰になっていない
- 下縫い確認: 上層を動かした結果、下縫いが露出していない
- 枠内確認: 新しいサイズが刺繍枠の安全縫製エリアに収まっている
- 試し縫い: 本番に近い端布・素材で必ずテストする
トラブルシューティング(現場での切り分け)
| 症状 | ありがちな原因 | 確認ポイント | 対処 |
|---|---|---|---|
| ボックス選択で何も選べない | 「完全に囲う」ルール違反 | ボックスがオブジェクトの端に少しでもかかっていないか | もっと大きく囲う。必要なら表示倍率を調整する |
| Shift+クリックで意図しないものまで選ばれる | 見た目ではなく縫い順で選択される | Dockerで、クリックした2点の間に何が挟まっているか | Ctrl+Clickに切り替える/必要なら縫い順を見直す |
| Resequence Dockerがない | エディション差 | 「Resequence」ではなく「Sequence」しかないか | Basics/Customizingの可能性。Creator/Digitizerが必要 |
| ファイルを保存した場所や形式が分からなくなる | 運用ルール未整備 | 作業用(編集用)と出力用(ミシン用)を分けているか | 保存先と形式をメモ化し、毎回同じ手順に固定する |
まとめ
Hatchの「選択」は、あらゆる編集の入口です。まずはボックス選択の「完全に囲ったものだけ」ルールで誤編集を減らし、次にCtrlとShiftの違いを縫い順の視点で理解してください。さらにResequence Dockerを使える環境なら、色ブロックとオブジェクト一覧で監査と編集が一気に安定します。
最後に、ソフト上の編集が完璧でも、実縫いは物理です。結果が安定しないときは、データだけでなく枠張りや固定方法も含めて見直し、必要に応じて マグネット刺繍枠 用 枠固定台 のような段取り改善も検討してください。
道具は揃いました。あとは、狙って選んで、確実に仕上げましょう。
