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「何でも2つ」哲学:ダウンタイムを設計で潰す
自宅で受注刺繍を回している方、あるいは趣味から副業・業務へ移行中の方にとって、勢いを止める最大の原因は「デザインが悪い」ことではありません。いちばん利益を削るのは ダウンタイム(手待ち時間) です。ハサミを探す、スタビライザーが切れて代替品を探す、ラベルが出せずに手書き対応する——こうした“小さな停止”が積み重なって、1日の生産量を確実に落とします。
Kelly the Embroidery Nurse の「Tuesday Tip」は、要点が非常に明快です。仕事を回すうえで重要な道具・消耗品は 必ず2つ(予備を1つ) 持つ。さらに、予備を開封した瞬間に次を発注して、常に「未開封の予備が棚にある」状態を維持する。これだけで、紛失・破損・欠品が“針を止める理由”になりません。

この運用ガイドでは、次の点を実務目線で分解します。
- 流れを止めない在庫ルール: 「何でも2つ」を、倉庫化させずに回す考え方。
- “ホットスワップ”段取り: 刺繍枠を二重化し、縫っている間に次を枠張りしてミシンの停止を最小化する。
- 消耗品の安全網: スタビライザー/スプレー接着剤/糸/針を切らさない仕組み。
- アップグレードの判断: 手作業の限界を感じたとき、マグネット刺繍枠や多針刺繍機をどう検討するか。
コメントでも「どんな案件でもブランク(無地素材)を2枚持つ。1枚作ったら、すぐ次の予備を補充する」といった考え方が共有されていました。焦りではなく、段取りで落ち着いて回す——その差が、現場の安定感になります。
刺繍枠を“2組”にすると利益が増える理由
ここでの最大の学びは、単なる買い足しではなく 段取りによる効率化 です。Kelly が実演しているのは、次の流れです。
- 刺繍枠Aがミシンで縫っている間に、作業者は刺繍枠Bで次の製品を枠張り(下準備)する
- 縫い上がったら枠を入れ替え、ミシンを止めずに次へ進む

この差が「趣味ペース」と「生産ペース」を分けます。
- 趣味ペース: ミシン停止 → 枠を外す → 次を枠張り → ミシン開始(1枚ごとに数分止まりやすい)
- 生産ペース: ミシン稼働 → 作業者は次の枠張り(停止は入れ替えの短時間だけ)
刺繍枠2組の段取り(デュアル枠張り)
- 刺繍枠A をミシンに装着して縫い始めます。
- すぐに作業台へ移動し、刺繍枠B 側で次の製品の枠張りに入ります。
- 触感チェック: 布は「ピンと張る」状態が目安です(たるみはNG。ただし引っ張って歪ませるほど強く張らない)。
- Aが縫い終わったら(糸切り音などで終端を確認しつつ)Aを外してBに交換、すぐスタート。
- 同じリズムで繰り返します。
Kelly は同一サイズの Fast Frames を2つ持ち、手元で入れ替え動作を見せながらこの考え方を説明しています。

なぜ速くなるのか(スピードの正体)
枠張りは、手作業で、感覚に依存し、ミスが出やすい工程です。ミシンを早く回したい焦りがあるほど、ロゴが傾く/布を噛む/位置がズレるといった失敗が起きます。
刺繍枠を二重化すると、ミシン稼働中に落ち着いて枠張りできるため、停止時間が減るだけでなく、枠張り精度も上がる のが実務上のメリットです。
ツールの見直し:標準枠がつらいなら“数”ではなく“方式”
刺繍枠を2つにしても枠張りが苦痛な場合、問題は「自分の手が遅い」ではなく、枠の方式が作業に合っていない可能性があります。
- 引き金: 生地が枠に入りにくい(厚物・段差・縫い目が邪魔)
- 症状: 枠跡 が強く出る/締めネジが固くて閉まらない
- 身体負担: ネジ締めで手首が痛い
こうした場合、業務の入口として検討されやすいのが マグネット刺繍枠 です。摩擦で押し込むタイプではなく、クランプ力で固定する発想なので、厚物でも“締め付け作業”を減らしやすく、枠跡の原因になりがちな無理な押し込みを避けやすくなります。
注意: マグネット刺繍枠は強力な磁石を使用します。医療機器(ペースメーカー等)や磁気カード、小型電子機器には近づけないでください。指を挟む位置でリングを近づけないこと。リング同士を勢いよく吸着させると挟傷の危険があります。
必須の予備在庫:スタビライザーとスプレー接着剤
消耗品に関して Kelly が徹底しているルールは、現場運用として合理的です。
- 棚に「未開封の予備を1つ」置く
- その予備を開封したら、その時点で次を発注する

特に Fast Frames を使うときに「粘着系スタビライザーが切れた」状況を強いストレスとして挙げています。必要な資材がないために別のスタビライザーで代用すると、結果としてシワ(パッカリング)や仕上がり不良につながりやすくなります。
スタビライザー在庫:『未開封1つ』ルール
Kelly は複数のスタビライザーを見せながら、予備を持つ重要性を強調しています。

補足(現場の前提): スタビライザーは“だいたい同じ”ではありません。
- カットアウェイ: 伸縮素材(Tシャツ等)で土台を残して支える
- ティアアウェイ: 比較的安定した織物向け
- 水溶性: パイルなどで沈み込みを抑える目的で使われる
自分の現場で使っている種類ごとに、同じルールで予備を持つのが基本です。
スプレー接着剤:使い方と安全
Kelly は黄色い缶のスプレー接着剤を2本示し、シャツの裏に No-show poly mesh を軽く貼り付ける用途で使うと説明しています(熱圧着タイプより好みとしてこちらを使う)。

触感の目安: スプレー後は「しっかり固定」ではなく、軽い粘着(付箋のような“軽いタック”)が狙いです。
- 弱すぎる: 作業中にズレてアウトラインが合いにくい
- 強すぎる: 針穴周りに糊が回り、糸切れ・糸ヨレの原因になりやすい
注意: スプレー接着剤は可燃性で、ミストが周囲に付着します。ミシンの近くで噴霧しないでください。ミストがボビン周りや可動部に蓄積すると、汚れの固着につながります。噴霧は専用の場所(箱の中・換気できる場所)で行い、必要最小限に留めます。
発送資材の管理:遅延を“生産停止”にしない
Kelly が強調している痛点は、「発送も生産の一部」ということです。刺繍が終わっていても、出荷できなければ仕事は完了していません。
手持ちのラベルプリンターを見せ、ラベルが切れると紙に印刷してテープで貼る羽目になり、時間を大きく吸われる(time sucker)と話しています。

「時間泥棒」になりやすいポイント
ラベル用紙のロール($8.99の例)や、ポリメーラー(宅配袋)についても触れています。

結論: 発送資材も、糸やスタビライザーと同じ“止まる要因”です。ポリメーラーが切れると、刺繍機は動いても出荷が詰まり、結果として現場全体が滞留します。
コメント由来の考え方:ブランク(無地素材)を2枚持つ
コメントには「どんな案件でもブランクを2つ用意し、1つ作ったら予備を補充する」という運用がありました。
- 初心者の想定: 「1枚買って、完璧に仕上げる」
- 現場の現実: 「2枚用意し、うまくいけば1枚は在庫。失敗しても受注を守れる」
※ただし Kelly 自身も、何でも倍買いすると利益を圧迫すると述べています。リスクが高い案件や、後で販売できる定番品に絞って“戦略的に”行うのが現実的です。
2台目の導入:いつ買うべきか
Kelly は「2台あれば生産量は増えるが、魔法の2倍ボタンではない」と明言しています。枠張りは結局手作業で、手は増えないからです。

ここで重要なのは、「台数」より先に「段取り」を疑うことです。
実務用の判断フロー(投資先の切り分け)
判断フロー(停止原因の診断):
- 枠張りが遅くて、ミシンが待っている時間が長い?
- YES: まずは段取り改善。刺繍枠の二重化、または マグネット刺繍枠 の検討で枠張りの手間を減らす。
- NO: 次へ。
- 色替えの手間で頻繁に止まる?
- YES: ボトルネックは単針工程。多針刺繍機の検討余地がある。
- NO: 次へ。
- 品質も段取りも安定しているが、単純に受注量が多すぎる?
- YES: ここで2台目を並列稼働として検討する。
準備:プレフライト(開始前)ルーティン
Kelly の助言を、繁忙期前に実行できる「事前点検」に落とし込みます。
「何でも2つ」基準の設定
- 在庫チェック: スタビライザー(裏打ち)が“未開封で1本”棚にあるか
- 針チェック: 予備の針パックがすぐ手に取れる場所にあるか(針折れは突然起きる前提で)
見落としがちな消耗品(止まりやすいのに気づきにくい)
初心者ほど、小物で止まります。次も“予備”の対象です。
- 下糸(ボビン糸): 交換で止まる回数を減らす
- ラベル用紙: 切れると手作業が増えて一気に遅くなる
- 発送資材(ポリメーラー等): 近所で割高購入になりやすい
段取り:スピードのための配置
予備を持っていても、置き方が悪いと“探す時間”が発生します。段取りで流れに変えます。
刺繍枠の戦略
Kelly は、よく使うサイズの刺繍枠は各サイズ2つ持つこと、また Fast Frames や Durkee 9x9 のような枠も二重化していることに触れています。
[FIG-10] [FIG-11] [FIG-12] [FIG-13]
セットアップチェックリスト(作業前の整え)
- 作業面を空ける: 枠張り用に、完全に何もないスペースを確保する。
- ペア確認: 同サイズの刺繍枠が2つ揃っているか(例:同じ5x7を2つ)。
- スタビライザーを先に切る: 1枚ずつ切らず、必要枚数を先に用意する。
- 治具の確認: 刺繍用 枠固定台 を使う場合、対象枠サイズに合っているか確認し、同一位置を再現できる状態にする。
- 糸の段取り: 使用順に並べ、交換の迷いを減らす。
運用:生産のリズム
ここでは「デュアル枠張り」を、実際の手順として固定します。
手順:『縫っている間に次を作る(Stitch-and-Switch)』
手順1:刺繍枠Aを開始
- 刺繍枠Aを装着。
- 感覚チェック: 押さえが枠の縁に当たりそうな位置関係になっていないか確認。
- スタート。
手順2:待ち時間を“枠張り時間”に変える(刺繍枠B)
- ミシン稼働中に作業台へ。
- 必要に応じてスタビライザーへ軽くスプレー。
- 生地をならして貼り、刺繍枠Bで枠張り。
- 触感チェック: 内枠周辺を指でなぞり、シワ・噛み込みがないか確認。軽く叩いて、たるみがないかを見る。
手順3:交換
- 縫い終わりを確認(糸切り動作など)。
- 刺繍枠Aを外す。
- すぐに 刺繍枠Bを装着してスタート。
- その後でAを外枠から外し、糸処理などを行う。
運用中のスタビライザー+接着剤
Kelly は Fast Frames 使用時に粘着系スタビライザーを使う話をしています。
- 現場のコツ: 刺繍用 クランプ枠 を使う場合、粘着の蓄積で扱いづらくなることがあります。作業の合間に拭き取りできるよう、手元に清掃用のワイプを用意しておくと段取りが崩れにくくなります。
終業時チェック(毎日のリセット)
- 針・周辺の汚れ確認: スプレーを使った日は、付着が増えやすい前提で点検する。
- ボビン周りの清掃: 糸くずの蓄積は絡み(鳥の巣)の原因になりやすい。
- 補充トリガー: 予備を開封したものがあれば、その場で発注リストに入れる。
品質チェック:速さと品質を両立する
効率化は、品質が落ちた瞬間に意味がなくなります。
見た目+触感の検査
- 枠跡: 強い輪ジワが出たら、まずスチームで戻るか確認。戻らない場合は締めすぎの可能性。対策: 締め具合の見直し、またはマグネット刺繍枠の検討。
- 糸調子: 裏面を見て、サテンの中央付近に下糸が適正に見えるかを確認。極端に表糸が裏へ回る場合は上糸が緩い可能性。
ミシンの“異常サイン”
- 音: 通常は一定の駆動音。周期的な強い打音が出る場合、針の劣化や当たりの可能性。
- 針折れ: 折れたら破片を必ず回収し、残留がないか確認する(残るとトラブルの原因になり得る)。
トラブルシューティング(原因→応急→予防)
| 症状(見える/起きること) | ありがちな原因 | 応急対応 | 予防(仕組み化) |
|---|---|---|---|
| 作業中にスプレー接着剤が切れた | 消耗品の欠品 | テープ等で一時対応(緊急時のみ) | 「未開封の予備を1つ」ルール |
| 針が途中で折れた | 消耗・負荷・偶発 | 針交換、周辺確認 | 針パックを手の届く場所に常備 |
| 枠跡が強い | 摩擦枠の締めすぎ | スチームで回復確認 | 刺繍ミシン 用 マグネット刺繍枠 の検討、締め付け運用の見直し |
| ミシンが長時間待つ | 枠張り/段取り遅延 | 1枠運用になっている | よく使うサイズの刺繍枠をもう1組用意 |
大きめの製品を扱うことが多く、枠張りの負担が常に課題なら、mighty hoop 8x9 マグネット刺繍枠 や mighty hoop 5.5 マグネット刺繍枠 のような定番サイズのマグネット刺繍枠を候補に入れる、という考え方も紹介されています。
まとめ:プロの“止めない”発想
Kelly の「何でも2つ」ルールは、浪費ではなく 時間に対する保険 です。
刺繍枠を二重化して段取りを組むと、ミシンと自分が並列で動けるようになり、結果として“自分の作業がもう1人分増えた”ような効果が出ます。
今日からのアクション:
- 棚卸し: 針、下糸(ボビン糸)、スタビライザーに「未開封の予備」があるか確認。
- 二重化: いちばん使う刺繍枠サイズを、まず1サイズだけ追加して2組にする。
- 改善: 枠張りがつらい/遅いなら、マグネット刺繍枠や枠固定台の導入を検討。
- 拡張: 段取りが安定しても受注が追いつかない段階で、2台目や多針刺繍機を検討する。
スプレー接着剤1本の欠品で、高単価の受注を止めない。必要なものは2つ用意し、針を止めない運用に切り替えましょう。
